毛里田村が太田市に編入し、群馬県山田郡毛里田村大字東今泉から群馬県太田市大字東今泉となり、4~5年を経過する頃には住所の文字列の変化にも慣れて来ていた昭和43年の誕生日が何ヵ月後に控えていた頃のまだ二十歳の時に発売された美樹克彦のレコードの「想い出の恋人」に実に魅せられたものだった。
二十歳の頃は勿論、その後もズーッとズーッと俺は恋とか云うものには全く無縁のこの世であるのに、本音ではどっかにいねぇ
ーかなと思ったりするものの出会うきっかけも分からないし、何かのきっかけで会えたとしても何か話をしなければならないし、そんな度胸は全然ないしそんな気持ちであったから愛しい彼女なんて夢の夢であったが、この歌を聞くと俺を思い慕ってくれる
彼女が実際にいて、俺への心ゆする恋が常時停留してるそんな愛しい彼女があたかも居るかのような、恋心の感情が体全体を覆ってくるほどのときめきがざわめき出し、迫り来る感動に愛しき人に心の内を叫びたくなってしまう
メロディーであり、演奏であり、歌詞であり、歌唱力であった。でも浮かべるものすべて、思う心も、みんな何もかも空想と妄想が成していたのだった。でも愛しき彼女には出会うことは出来なかったけど、この歌に出会えたことは幸運であり、この歌は俺の精神的な宝の一つとしている。
この曲から自分なりの千差万別的な思考の解釈力や思考の眼をより広範囲に着眼出来る洞察力を養う素地として色褪せないように大事に心に置き留めていたいと、そう考える大事な曲であり、歌であり、人生の各要素への洞察力が高められるように、深められるようにとの願望をもいだかせてくれる歌でもある。しかしこの歌に出会って47年も経っているのに未だに洞察力の欠落は相変わらずであるが、洞察力養い高めたい理想への思いは今も続いていて、この歌との縁から発したそんな願望の心は全く失せていないつもりでいるのだが今もって全く進展なし。
思うに多分、こんな歳になってしまっているのであるから今後も進展は無く、そんな願望もいつしか溶け消え去りてて、哀しいかなそんな願望を抱いていたことの一欠けらも存在してなかったようなままで人生の終焉へとなってしまうんだろうかと、ふと思うこと多々あり。
こんなにも歳を重ねてしまっても今もこの歌を聞くと当時二十歳の昭和43年の時代・世相への家路に向かう支度は一瞬にして整え、 すべての事象が昭和43年の時代模様の色、匂いとなって浮かび上がり、昭和43年の東今泉の風景と連動しながら愛しき人は誰も居なく恋の妄想だったけどあの時の恋心へと導いてくれるのである。
その導かれる恋心に潜在してる憧憬は、
青春の夏、青春の海辺、青春の恋を淡く切なく感傷的のイメージへと繋げて表現する曲と演奏に、そして美樹克彦の歌唱力の旨さに、青春の恋へのときめきの空想と妄想的な世界を作り上げ、ロマンチックな心情は体中一帯に愛おしさで染め上げたさざなみが広がり、湧き出てくる恋のときめきで支配される胸の中に、あっという間に恋が駆け巡る空想が訪れるのであった。
この歌が発売された前年の秋に親父が亡くなり辛い気分払拭出来ずとも、普段ではそれを表面には表さないコトに徹し、それは年頃からして悲しみを表すのは何となく気恥ずかしい気持ちとなるので普通を装っていたが、胸中には親父への可哀想の思い、母・祖父母・姉・兄・俺自身のショックなどそれぞれの様々な絶望感と悲しみが心の内に堆積していて常時辛さ失せることはなく、重い心は体の中にしまって普段は何気ない普通に過ごしていたのだが、そんな自分の心に「優しくて、可愛くて、清純な」恋人といっても良いのかなという彼女が居て「元気出して、可哀想だけどもうどうにもならないししようが無いよ、私がいるから元気出して……とか……なんて……」と言ってもらいたいような、そんな彼女がいる状況があったらなと思う願望の気持ちを抱く心があって、その心情がこの歌を聞いてると妄想に入り込み、思い描く情景に向かって心が吸い込まれて行く俺の伴走者になってくれた曲だったんだという思いがしてくるのである。そんな情景に浸れたことに感謝してもまだまだ感謝しきれないほどなの感謝と感激を与えてもらい47年間をずっと淡い青春を維持して今もその時の心で経過中にさせてくれる「想い出の恋人」である。
この歌を聞くと今になっても俺にとっては確かにいたんだぜ、あの時の愛おしい可憐さをいっぱい含んでいた優しき可愛い彼女がいたんじゃないかよと、妄想を否定したくてたまらなくなる。でも現実は妄想の中。それでもその恋に、なんか悲しくもあの時に戻りたいと胸が締めつけられる気分が去来するのである。。
妄想の世界であったけどそんな心に繋げてくれる「想い出の恋人」の歌に出会えて本当に幸運である。
毛里田村が太田市の一員となって4,5年を迎える昭和43年頃、本や歌を始め目や耳などから入るいろいろな情報からでもロマンチックな気分が俺みたいな奴でも持てるんだなと感じたり、いろいろな思考力や想像力が少しずつ広がっていたのかもしれないこの二十歳頃には、住所も滑らか感じをもって太田市東今泉と言えたり、書いたりしてて、太田市への違和感もほとんど感じなくなっていたのである。