平安時代には「陶器」と書いて「すえもの」「すえうつわもの」と読まれていたが、それが古墳時代に遡るかはわからない。陶器(とうき)と混乱を避けるため、現代の考古学用語としては須恵器が一般化している。20世紀前半までは祝部土器(いわいべどき)と呼ばれることがあった。
須恵器の起源は朝鮮半島(特に、その南部の伽耶)にあり、初期の須恵器は半島のものと区別をつけにくいほど似ているが、用語としては日本で製作された還元焔焼成の硬質の焼物だけを須恵器という。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などもう少し細分した名で呼ばれている。
土師器までの土器が日本列島固有の特徴(紐状の粘土を積み上げる)を色濃く残しているのに対し、須恵器は全く異なる技術(ろくろ技術)を用い、登窯と呼ばれる地下式・半地下式の窯を用いて還元炎により焼いて製作された。それまでの土器は野焼きで作られていた。このため焼成温度(800~900度)が低く、強度があまりなかった。また、酸化焔焼成(酸素が充分に供給される焼成法)となったため、表面の色は赤みを帯びた。それに対し、須恵器は窖窯(あながま)を用い1100度以上の高温で還元焔焼成する。閉ざされた窖窯の中では酸素の供給が不足するが、高熱によって燃焼が進む。燃料からは、酸素が十分なら二酸化炭素と水になるところ、一酸化炭素と水素が発生する。これが粘土の成分にある酸化物から酸素を奪う、つまりは還元することで二酸化炭素と水になる。特徴的な色は、粘土中の赤い酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質するために現れる。
(ウィキペディアより参照)