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お鎮守さま(鹿島宮)より金山山頂を望む。

巖穴山古墳

俺は子供の頃から巖穴山古墳(いわあなやまこふん)と言ったような記憶はなく、(そんな難しい字の正式名があるとは考えたこともなかった)。別呼称の一本杉と云う言い方で大人になってしまいました。今でも一本杉と普通に使っている。
ここは古墳なんだと知ったのは小学6年生の頃だったような気がしているが、初めて古墳内部の石室に入ったというか潜ったというか内部を見たのは中学三年生の2月か3月だったかなと記憶している。当時は現在のように整備などされてなく、石室入り口は金具の扉など何もなく入りたければうつ伏せになり胸をずるようにしていつでも入れる状態であった。クラスの仲間4、5人で学校帰りに石室に潜り、その後、適当に何日置きかに寄ったように記憶している。 古墳を勉強の一環として見学に寄ったなんて 事はさらさらなく、学校帰りの単なる寄り道としてここに立ち寄る癖みたいのが何回か続いたに過ぎなかったのである。
その後、何となくで何時からだかは漠然としているが、日本各所にある色々な古墳に興味を感じるようになっていたもののその後もこの一本杉の古墳に特別関心もなく日々過ぎていたが、30代の中頃から急にこの地に古墳があることを凄いと思い抱くようになった。それに伴いこんなにも近過ぎる所にあることでこの古墳への関心気分が薄く灯台下暗し的感覚であったこの一本杉の古墳へ心密かに恥じる気分が続いたものだった。
それまではいつからともなく大仙陵古墳の仁徳天皇陵、誉田御廟山古墳の応神天皇陵、上石津ミサンザイ古墳や奈良明日香村の石舞台古墳、キトラ古墳、藤ノ木古墳などをはじめ有名と云われてる古墳にはどんどんと興味が進展し、凄いよな、土木機械もなかったのにこんな凄いものを造る大工事風景はどんなんだったんだろうな、とか単純なことも含め、興味関心の高まりの心を客観視するようなもう一人の自分がいるような気がしていた。
高松塚古墳の壁画発見の大ニュースには心ときめき、その翌年25歳の時に東京の美術館でこの壁画写真の高松塚古墳展があり、逸るワクワク感を満載しながら吹っ飛ぶような勢い気分で見学に行ったもんであった。その後キトラ古墳石室内の彩色壁画に玄武が発見されたりと大発見ニュースなどにつられたりで距離的に近場の古墳にも気が向くようになり始め、市内内ヶ島にある天神山古墳・、女体山古墳、前橋八幡山古墳、行田市の稲荷山などなどにも興味が広がって行ってる自分の心に、ふと待てよと、こんなにも近くて直ぐのところに"ズーッと"半端ではない長き歳月の事象を見続けてくれてる一本杉の古墳があるではないかと、 正に灯台下暗しと気づいたのである。
古墳が築造された時代は3世紀中頃から7世紀の終盤か8世紀の前半頃あたりまでと思っていたので、この方墳古墳である一本杉の古墳(そろそろ文章も終盤にしたいのでこれ以後は巖穴山古墳と表記する)も少なくとも1,400年は経過しているんだろうなと推測してはいたが、そのうち平成2年頃にこの巖穴山古墳の説明掲示板が墳丘の南側に設置され、そこに築造時期は7世紀中頃と記載されており、自分の推測も的中範囲に収まった。西暦で考えれば650年頃かと。風雪を蹴散らし今日も存立するこの古墳の長い歳月の歴史にただただ平伏するばかりであった30代の頃。そして其の頃から30余年を経過した現在も元気に歴史を積み重ね続ける巖穴山古墳の今泉の地を見つめてくれてる視線に1,400年の重みと歴史が溶け込んでると思えば凄いこと、実にありありがたいこと、と感激しているこの心を果たして巖穴山古墳は分かってくれているんだろうか。
築造時期7世紀中頃ということの学説を素直に信じて、
遥か遠い西暦650年頃へ遡れば、時は歴史の勉強で習った飛鳥時代。夢のようで果てしなく遠くに思う悠久の更に遠くに位置する飛鳥の世を目(ま)の当たりに眺望出来るすぐそこまで遡ったことになるのである。望み叶うなら新緑色に映る新鮮で澄み切ったような飛鳥の時空のあそこにもここにも限りなく浮遊している天平の生き様を目(ま)の当たりする古(いにしえ)の飛鳥時代の全てを全身で浴びたくもなるのである。その古の飛鳥時代の森羅万象が巖穴山古墳に現存し、更に現今過ごす平成の世の刻々と生まれてくる日々毎日の東今泉の歴史を 寸分の置きざらしも無く、ひとつ残さず古墳内に吸収保管して未来永劫へと永遠に流れ続く墳丘の中に溶け組み込んでくれよと願い祈る思い抱きつつ永遠の巖穴山古墳消滅の無きよう願い、今泉地に未来永劫に在り続ける事を祈るばかりである。
ここ巖穴山古墳の1,400年以上の歳月を想えば織田信長も豊臣秀吉も徳川家康もちょっと何年か前か何日か前にいた人かなと思いたくなり、また江戸幕末の世相なんて昨日か或いは今日の何時間か前の事だったかなと思えてしまうほどの気分にしてしまう1400年が今泉にあるのである。未来永劫不滅を願う心にはこれから1400年後の巖穴山古墳を見られる人等に対して羨望の眼差しを持ちながらも嬉しく思えてならない心情が 存在しているような思いがしているのである。
1,400 年近くという悠久の時を経ていても、築造時期の7世紀中頃の飛鳥時代が今泉の地に現存してるんだと捉えると東今泉の地には凄いものがあるんだと思え感嘆するばかりとなってくるのである。
学校の歴史の授業で教わった体験からすると、この巖穴山古墳の築造時期のこの7世紀中頃の少し前には小野妹子らの遣隋使があり、女帝の推古天皇や聖徳太子が活躍し、十七条憲法を制定があったり、この築造時期の7世紀中頃には大化の改新、少し後にかの有名な壬申の乱あり、その後の8世紀になった初頭頃に和同開珎が造られ、学校で教わった歴史年表に従えば後に奈良時代、 鎌倉時代、室町時代、江戸時代、明治時代、大正、昭和と続き、平成の世が今ある。この事象 に「天文学的歳月を歩み続けてくれてる生き物」なんだよと思うばかりである。そう捉えただけでもこの巖穴山古墳の歳月は驚愕以上の驚愕にしか思えないのである。人生80年の寿命が寂しくも哀しくも余りにも短く辛くしてしまうほどの長き歳月の1,400年生き続けてるのは物凄い事であると思うばかりである。この巖穴山古墳築造時期からの後に奈良時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代、明治時代云々と続く日々、築造されてから1,400年近くの歴史を歩み続けるこの巖穴山古墳の悠久の古(いにしえ)を閉ざすことなく永久不滅で東今泉の地に有り続けてと願うばかりである。東今泉のシンボル的存在である"さざえ堂"、と"鹿島宮・八坂神社"とともに巖穴山古墳も東今泉のシンボルとして永遠に飛鳥時代の灯火を灯し続けることを祈り願い、自分なりの東今泉の絶大なスポットとしているのである。
★なんか同じような文言・文体を繰り返してるようだと自分も感じつつも、1400年の重厚な歳月を思えば文面の繰り返しなんかを気にする事は微々たるもにも値しないと自分流判断しながら、巖穴山古墳への感性から来る思いを綴ってみたのであります。

★太田市指定史跡 巖穴山古墳(いわあなやまこふん)★

一辺36.5m(現在墳丘部30m)、高さ6mの方墳である。墳丘四辺の方位がそぜぞれ東西南北にほぼ一致している。発掘調査により幅7mの周堀が検出されている。 葺石・埴輪は確認されていない。
墳丘南面 に横穴式石室が開口している。石室は複式構造をとる大型のものでチャートや凝灰岩の自然石を用いて築造されている。現存する石室の全長は13.4mである。
出土遺物には玄室内から土師器片・人骨片・金属・刀装具、羨道から須恵器提瓶等がある。
築造時期は古墳時代終末期の7世紀中頃と考えられている。終末期の古墳としては太田市唯一の方墳である。
かってはこの古墳周辺に十数基の古墳があったが、現存するのは保存状態の悪い4基の円墳のみである。巌穴山古墳はこの古墳群の中心的存在であったと推定される。
古墳南西の金山山麓には全国的にも有数の須恵器窯跡群があり、また南東の大道東・大道西遺跡や北東の楽前遺跡からは窯跡群と同時期の大集落が発見されている。被葬者はこれらを支配したこの地方の主導的立場にあった豪族と考えられている。
                                        平成2年(1990)3月31日
                                                   太田市教育委員会

▲墳丘南側に設置されてる説明掲示板より転載

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