東今泉町のホームページ

郷土東今泉からの情報発信をあなたの身近にお届けします

お鎮守さま(鹿島宮)より金山山頂を望む。

東今泉の概要

東今泉を含めた金山山麓の東西南北の村落地域でも、 徳川幕府の時代になると各村々に幕府領藩領旗本領の知行が混在して来ました。金山の東方に位置する我が東今泉は幕府領と旗本 領の知行地として(一部寺社領含む)徳川幕府終焉ま での長き歳月を上野国(上州)山田郡今泉村の地名で、あの時・その時・あの頃・その頃の日々の喜怒哀楽を繰り返しながら時節を延々と刻み重ねて来たのであります。『参考:江戸時代の鹿島宮(東田圃あたり)と赤城神社(堰場あたり)』
●世は明治となり、武家封建制度社会から近代西欧諸国に負けず劣らず、更には諸外国に対し富国の優位性を確立すべく社会形成の構築をより早く目指したい明治新政府にとっては、日本社会の過去にも全く経験のない新しい国家制度の形成を目指す為の根幹を成すべく地方行政基盤作りへの方策などに試行錯誤を繰り返す中で(ここの段落の始まりである世は明治となり、武家封建社会~………終わりのほうの………~を繰り返す中で、あたりまでの文章も、全くの俺の勝手な個人的客観視であり、且つ推測視である)、我が東今泉村も岩鼻県の管轄下に取り入れられたり、第1次府県統合により栃木県になったり、東今泉村の一部が新田郡となったり、明治9年の第2次府県統合により、山田郡域は群馬県の管轄となったり、1878年(明治11年)12月7日 - 郡区町村編制法の群馬県での施行により、行政区画としての山田郡が発足したりと、いろいろ紆余曲折しながら時を経て、明治22年4月1日の町村制の施行により、
「東今泉村、吉沢村、丸山村、矢田堀村、古氷村、只上村、市場村、富若村および新田郡太田町の一部」により毛里田村が発足し、地名も群馬県山田郡毛里田村大字東今泉となりました。この毛里田村はその後昭和38年(西暦1968年)12月1日に太田市に編入し消滅。当時俺は16歳生まれてからず~と体の一部分みたいに慣れ親しんでいた山田郡毛里田村が無くなった事の淋しさと悲しみなど複雑な気分になっていた自分自身の感情を今でも鮮明に記憶しているのである。
日増すごとに、歳月重ねて行くごとに、徐々に山田郡毛里田村大字東今泉から太田市東今泉への感覚の違和感が薄れていくものの、どんどん遠ざかって遠近法のように見えてくる毛里田村のどんどん小さくなって行く姿に恋しくも、寂しくも、と複雑な胸の内を感じていたものだった。地名は群馬県太田市大字東今泉と変わり、平成9年5月から平成10年10月頃までに大字の文字が抹消され、東今泉の下に町が付き、群馬県太田市東今泉町として現在に至っています。

金山を背景に東今泉を遠方より撮る

★サムネール画像の上へマウスポインターを移動させると 、その画像を拡大表示出来ます。


★当ホームページはサイト管理者である私の個人的主観の個人趣味で気ままに制作したものであり、東今泉(5区)自治とは一切関係ありません。

東今泉人口構成
(2018.4現在)

↓↓私のスポット↓↓

↓↓近辺の神社仏閣↓↓

神社タイトル

↓↓東今泉風景↓↓

東今泉風景

東今泉のスポット

★現在、最新のHTML言語の記述はHTML5ということらしいので記述はHTML5で、ブラウザはグーグルのChrome(クローム)で表示確認しながら 制作しました。HTML5の記述にIE8.0やIE8.0以前のバージョンには対応しないものもあり、そのことにより画面表示されないところがあったり、デザインが崩れてしまう部位もあるかと思います。なにしろ私、WEB制作の全くの素人です。CSSもJavaScriptもCGI もFLASHなども、み~んな殆んど分からず最後まで暗中模索の状態のままであるがゆえに素人っぽさが充満してるHPですが、趣味の一つにHP制作が出来たらいいだろうなと思いながら、やっとのことでとりあえずなんとか作ってみた趣味的HPであります。