いつしか頃より時々思うものの未だに分からない。それは隣組の呼称名の起源。
★隣組名の起源を分かっている人からしたら馬鹿な愚かな推測をしていやがって無知な奴だなと思われるのは充分承知の上なんであります。
さて、比較的新しい「団地」と「社宅」は住居環境の形成から付けられたストレートな呼称で分かり易い。この団地と社宅を除いた10箇所の隣組の呼称の名付け意味やそれらの起源についてのなどなどを時々興味を抱くものの、納得出来る史実も掴めないままいつの間にか興味関心が遠のいてしまったり、またそのうち興味が近寄って来たりといった気分を繰り返し、自分なりに想像・憶測するものの未だに正確な史実は分からないまま想像と憶測を引き続けているのである。
正確の史実分からないながらも、上図のように隣組の領域それぞれに(図は大体で大雑把な隣組領域の区分けで書いてみたので、細かく正確に、細緻にとなるとかなり地域割りずれてるかなと思えるような大体のイメージ図である。)文字を入れて見ると隣組の呼び名の文字の重き風格と実に良い味わいが醸し出されて来るではないかと感じるばかりである。↓
歴史を積み重ねつつ、しっかり根付く隣組の呼称
隣組名を名付けた人達は今泉の先人なんだろうか? それとも今泉周辺の人達だったんだろうか? 命名されてからどの位の歳月が流れているんだろうか?。
それとも明治時代になって付けられたのか、そうだとすると、戦国の世の金山城との接点が断たれることになり、自分が推測・想像する戦国の世へ向かう道すがらのあちこちに限りなく散乱するロマンを抱き合わせながらの筆の旅はこの辺で打ち止めにしなければならなくなるのである。無理しても何としても、下克上の世に風雲激しく激動する
金山城と重ね合わせ結び付けないと今泉の隣組名から連想させてくれる俺にとっての勝手に描く夢のような良さ、味わいのイメージが死滅してしまうのである。つまり今泉に潜在する歴史ロマンが俺の心から完全に消失してしまうのである。であるからには新しく命名された隣組名もあるのは承知はしているものの、全ての隣組名は「明治以降に誕生したものなんだよ」とはしたくないのである。
◆◆◆どうでもいいような、完全に間違った無知な馬鹿げた憶測だと思われても、折角思いついた勝手な主観的想像の世界にまだ浸って居たいから文章はまだ続けるとして……………◆◆◆
さて、東今泉の人々の生活の中に隣組の呼称はしっかりと根付き、あたかも空気のような無意識をもって今泉のそれぞれの人達の体に溶け込んでいるものと勝手に思うのだが、隣組は生活地域の最も基本の場所であり隣組名がしっかりと生きている現実を、今泉地内の隣組名を命名した遥か昔の当時の人達に長き歳月を経ても、今もって日常の必須用語なってるこの今泉の隣組名を見てもらい、今もしっかりと生活の中にこれらの隣組名は生きてるのを確認してもらいたいものであると、そんな気分になるのであります。きっと大感激してくれるだろうなと勝手な想像をしたくなるのであります。
そしてこの東今泉内の隣組名の発案は、当今泉の直ぐ西方に悠然と構える堅牢無比な山城であった金山城との関わりに起因しているのかなと勝手解釈し想像をしたくなるのであります。↓
雑木林の中に点在する人家
金山城の意気盛んな頃の何百年も昔の当時の地理的環境を想像すれば、日本中の風景は一部の地域を除けばほとんどは雑木林や山林で地域は形成されていたようなもんだったんだろうから、現在の今泉あたり全般も金山城へ連なる山の一部であって、大小の木々深く険しい山の麓(ふもと)であり、人家はちょこちょこと点在している位で、道は獣道(けものみち)みたいな道が生活道路であり、雑木林の鬱蒼(うっそう)と生い茂る樹木の間をクニャクニャした道幅細く険しく、狭い山道のデコボコ道を人々は往来し、そしてあの辺りも此処彼処も、がさっかぶだらけ。そんな山林の中の一部分にも等しいこの今泉地内の名称(今の隣組名)は金山城域範囲内に現在の今泉地域(この頃はまだ今泉という地名は集落的には存在してなかったかもしれないと自分では推測)は入っていたがゆえに付けられたような気がして来るのである。↓
西方に位置する金山城と東今泉との因果関係
自分なりの勝手な憶測・想像を更に展開して行くと、
①堀之内は、堀や之内という文字があるだけに山頂の金山城への侵入を防ぎ護るための城らしき質素な館(やかた)が建てられていて、その館の周囲をめぐらす堀があり、それを起源としているのだろうか。
②大門(だいもん)も単純に考えれば大きい門があって(もしかしたら曹源寺の門が他の物と見比べた時、それなりに大きく見えるのでその辺りを大門としたのかとも推測したくもなるのだが。或いはリンクで見る地図のずっと以前に大きな門あったのを起源としているのか推理していくと楽しくなる)。いや、待てよと言いたくなるが、この辺にも金山城に関わる館があり、その館に大きな門があったので、この辺りを大門と呼ぶ隣組の起源に?がっていくのかと憶測していくとやはり金山城との関連性は濃厚であり、大門を擁する今泉は金山城の城内範囲であったと憶測したくなってくるのである。
③辻口西、辻口東の命名は、東今泉の公道として現在も生活の重要な道路として使われてる旧道である太田・桐生順道に対して東西に続く狭い道が交差した今で言う十字路があり、そこを基点に太田・桐生順道の西側を辻口西、東側を辻口東と名付け、この東西の道の西側方面の山深い獣道みたいな道をずーっと歩いて行くと山頂の金山城の館に辿り着いたのだろうと自分勝手に想像が湧いてくるのである。
★「辻」は二つの道路が十字形に交差してところをいい、要するに今で言う十字路。「辻」の漢字にある十は十字路を指すのだそうです。良く考えたものです。そして、今では転じて「人通りの多い道筋」や「街頭」「道端」も表すようになり、政治活動での良く耳にする辻説法、そのほかに辻商い、辻強盗、辻斬りなどなど道を意味する「辻」をくっ付けたいろんな表現は普通な日常言葉になってます 。★
④中山、山口、入口、今泉口の各その辺りは金山から今泉へ、今泉から金山方面への通用口みたいなところだったのだろうか? この通用口辺りを通り今泉に辿り着いたといっても、当時は山の一部のようであり、樹木で覆われて今泉辺りは深い雑木林一面の中に、人家も少なく適当な軒数で集合しつつ点在していたような風景だったのだろうと想像したくなる風景は写実的画風として脳裏に形作られ、目(ま)の当りに浮かんでくるのである。 ↓
今泉と西方に位置する金山城との因果関係
◆東今泉地域の生い立ちを想像するとき、金山城築城との因果関係を濃密に考えたくなります。金山城への東方からの攻撃に備えた防衛陣地としての強固な役割を課せられていた地域で、金山城配下の武士たち(岩松家家臣、岩松家滅亡後は由良家家臣)と一般住民が混在していた所であったのが今泉だったと推測したくなります。
結局私なりの推理では金山城を防衛する東方地点の要塞を意図して今泉地は発祥したんだろうかとか想像すると、遥か古(いにしえ)の戦国の世の今泉の住人の生活風景
を想像し、過ぎ去りし遠い古(いにしえ)の我等の祖先の日常を想像する風景の一つひとつに、感傷的郷愁が胸の内に次々と襲来し、確実にあった遠いあの日あの時その時の事象の中へ推測心と想像心を抱き(いだき)ながら吸い込まれて行きたくなる願望が襲ってくるほどに当時の世相が
眼前へ浮かび上がって来るのだが、往時を推理・想像してると楽しさが満ち溢れて来るのである。
◆金山城が岩松氏により築城されたのは西暦1469年らしい(?)といわれるので(後に下克上をし岩松家家臣である
横瀬氏が岩松氏より金山城を奪取、その後、由良姓と改める)頃からもし今泉という地名が存在しているなら約550年くらいの歴史があるということになり、長い長い歳月
(隣組名)
が、世上人々移り変われども、これらの隣組名が不動の岩石の如く歴史の風雪に揉み消される事もなく未来永劫永遠不滅であって欲しい、と馬鹿げた推理をしながらもそう願うばかりである。
★地味に存在感無く生きることをモットーに過ごす者の好き勝手な推理と想像と感情で記した憶測の世界です。