平成18年に新しい現在の鹿島宮本殿と八坂神社本殿に建替えられ、早いもんでもう9年になる。
神社の言い方は、小さい頃からお鎮守様と云う言い方が普通で、ずっとそう使って来ているけど、いつしか遠いある頃から神社と言い方もするようになり、今は神社とお鎮守様の二通りを入り交じりながらの会話をしているものの、普段の会話には鹿島様とか鹿島宮とか、八坂神社とかはなかなか言わないで済ましてしまうことが多い。会話の瞬時に言葉に出るのは神社とお鎮守様であり、鹿島宮や八坂神社と言うことをなかなか思いつかないのである。例え思いついたとしても言葉にする時は神社あるいはお鎮守様と口にしてしまうほうが圧倒的に多く、鹿島宮や八坂神社と言うのをパスしてしまうのである。
俺が15歳の時、親父が「お鎮守様は東田圃の方にあって自分が15か16歳の頃に今の場所へ移したんだ」と話してくれたことがあった。それまでは神社は家の西にずっと昔からあって、移転して来たものとは考えることなどまったくなかった。昭和37年の中学3年の時で今から53年も前の話しである。
その時の話しでは親父が16歳位にはなっていたというものの、大正時代の半ばの頃のことだし、大正という響きが俺には物凄く遠い昔のことと思えて、すげー昔のことに感じたものだったが、
今(平成27年)になって思うと、親父が話してくれたその頃は移転してまだ46年前後くらいしか経ってなかったんかと、なぁ~んだ親父が話してくれた
ほんの少し前位に移転があったのかと思えるような気分になってしまう。親父が話してくれたあの昭和37年頃から大正時代はそんな昔ではなかったんだと思えるのは俺も歳をとっちゃったんだということか、と自分を振り返り寂しさ気分が訪れる。
親父からその話しを聞いた昭和37年から平成27年の今日までほうが上回っていて53年を経過しているので余計にそう思えてしまうのかも知れない。
そんな神社は家からは断然近かったせいか本当に良く遊んだ場所だった。大体いつも誰かしら村の子ども連中が遊んで居たので仲間に入れてもらえたもんだった。
◆元鹿島宮の場所◆ |
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元の神社は、下馬橋の四つ辻東の交差点を基点にして、東は122号まで、北は高速道路にかかる土地殆どが鹿島神社に関係するのでないかと推測されます。(東今泉字鹿島分)小字に田がつく字地は神社に縁があるそうです。北に赤城山、東山道、西に聖域、新田山、領地、生産地、東に渡良瀬川、南に耕作地、原野、しかも神聖の地として、祭礼の場所を此処に定めたのではないかと推測されます。 |
子どもの頃は本殿の中へ入ったことは無く、境内の庭や東側の坂で滑りに興じたり、あちこちにある木に上ったり、枝木へぶら下がって勢いをつけて飛び降りたり、お祇園の日には外に置いてある太鼓を打ったりして遊んだもんである。子ども心に本殿は大人が入る所であって子どもは入る所ではなく、更にまた本殿の中は面白くもない所という子ども心があり、本殿には子どもは絶対に入る場所ではないんだとか云うそんな先入感を抱いていたのではなかったんかなと、振り返り、思うのである。本殿の中へ入り込んでいた子ども連中を見た記憶は全くない。お祭りなどがない普段の日は大人たちも居ないし、戸締めにもなっているので、薄暗く何となく本殿の中は不気味な感じを抱くので、本殿に入ることは考えたこともなかった。本殿部屋へ入いりたければ戸をちょっとだけ無理にガタガタやれば、子どもの頃の戸締め状態なら入って行くことが可能だったのかもしれないが、外の拝殿辺りから本殿の中を覗いたりしたことは何度もあったけど本殿の中へ入り込む気持ちになることは一切なかったのである。
ただし、床下が結構高かったので、潜ってアリ地獄(当時の子供はそう呼ばないで別な言い方をしていたが、なんて言っていたか忘れてしまった)。を捕ったりしていた。
今は神社の境内で遊ぶよりも、個人、或いは少人数が隣接するグラウンドに来て遊ぶようになってるようだ。神社で遊ぶ子どもたちの集団は年々居なくなってるのか、最近は神社から子どもたちのキャッキャッと楽しさ交じて騒ぎ立つ元気な声が小高い神社の丘から流れ降りて耳に入り込むグッドタイミングの遭遇に出くわすことは殆どない自分である。
現在の神社の周辺はグランドなども出来て俺の子どもの頃とは格段の更に格段に 整備され、明るく清々しい風景となっており、神社は何処へ行っても自慢出来るほどの重厚さと荘厳さに富んだ社殿に建替えられ、踏み締め歩く境内の砂利が発する足音は、立派で堅牢な社殿の何処からとも無く祭神が「良くお越しに頂いた」と感謝の喜びとを表してるかのようでり 、この小高い境内から眼下に広がるパノラマ的景色の眺望光景に、60年前の素朴な家並みの今泉の風景も眼にしたい気分が高まること、時にしてあるのである。
願望一つ願わくば、境内周辺に今ある木々達がたくさんの種を落とし、その種から木々が1本2本と増え続け、いつしかこんもりとした鎮守の森となって社を覆い囲み、安堵で静寂の中で佇む神社の緑深き木々のこんもりとした鎮守の森と社が一体化した光景を眼にする頃が来ることを心密かに願い祈っていたい。
★村社 鹿島宮(かしまぐう)★★旧本殿老朽化により解体、再建(平成18年)
★祭神(神様)→武甕槌命(たけみかづちのみこと)(健 御 雷 神)
東国・東北地方の開発と安定に尽力し、武力と文化を持って庶民生活の安定の神様。
奈良 春日大社・一宮の祭神で、陸軍の総指揮者で武神の守護神でもある。
武勇・戦勝・勝運の神として崇められている。
ここ東今泉のお鎮守様である鹿島宮には、
境内末社(けいだいまっしゃ)として、
●香 取 社(經津主命/ふつぬしのみこと)春日大社の二宮に祭神・武神で水軍総指揮者(香取神宮-佐原市)、
●諏 訪 社(建御名方命/たけみなかたのみこと)農業、狩猟の神 (鹿嶋・香取・諏訪社は東国の三武神(諏訪大社-諏訪湖湖畔)、
●赤 城 社(磐筒男神/いわつつをかみ)山の神 香取社祭神の父(赤城神社-赤城山)、
●愛 宕 社(火産霊神/ほのむすびのかみ)火の神、竃の神、
●菅 原 社(菅原道真公/ふじわらみちざねこう)学問の神、
●松 尾 社(大山昨命/おおやまくひのみこと)寿福の神 酒徳の神 賀茂神社主神の父(京都/松尾)、
●八 坂 社(素盞鳴尊/すさのおのみこと)、
が祀られてる。
※上記の香取社、諏訪社、松尾社、赤城社、愛宕社、菅原社の6社は鹿島宮と合併して境内末社としてここ鹿島宮境内に祀られています。
合併してない八坂社は鹿島宮本殿の西に建てられてある本殿に祭神(神様)である「素佐之男命」が祀られています。
※神社は一人の神様(祭神)だけが祀られてると思われがちですが、神社の境内には複数以上の祭神(神様)が小さな祠(ほこら)に祀られているのは普通にあることで、どこの神社にもあることであり、その祀られている社を「境内末社」(けいだいまっしゃ)というそうです。