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お鎮守さま(鹿島宮)より金山山頂を望む。

菅ノ沢遺跡が東今泉内にあるということを知ったのは新聞の群馬版に駒沢大学の考古学研究会による発掘調査の記事が載った20代の半ば頃だったように記憶している。
調査が一段落した頃になったら現地を見てみたいと思いながら、近くにあるので後でいつでも見に行けるなんて気持ちになったり、もう少し経ってから行こうとか考えてるうちに月日も経ち、何回かの駒沢大学の発掘調査も昭和52年頃一区切りがついたのか終息してしまった。
俺は昭和49年頃から5年間位今泉には住んでなかったので今泉の情報には遠ざかってしまっていたようで、あんなにも興味心をひそかに抱いていたこの菅ノ沢遺跡への関心は遠のき薄れていたのである。
その後、また東今泉に住むようになった頃は、駒沢大学の遺跡調査も終わっていて久しい頃ではあったが、菅ノ沢遺跡はどんな形跡になってるんだろうか、当時を簡易にでも復元した構造物でも築かれているんだろうかとか諸々浮かんでくる遺跡への興味心は日々に膨らみ、遺跡場所の見たさを日常的に抱くものの、相変わらず近くにあるんだからいつでも現地を見ることは出来るとの気分を繰り返しながら歳月はどんどん積み重ねて行くばかりであった。
無名・有名問わず遺跡と名の付く所を多少は見て来てはいたが、他の遺跡を見るその度に菅ノ沢遺跡を見なくちゃと思う気持ちが高まり、なぜか菅ノ沢遺跡に申し訳ないような気持ちに襲われるのであった。

17か18歳頃の冬、学校帰りにその当時は菅ノ沢遺跡があるとは全く知らず、滑りたいだけで「池で氷が張るから滑りに行くか」と同級生3人で池へ何回か滑りに行った思い出が懐かしく浮かんでくる。兄貴のスケートをこっそり持ち出して滑り遊んだその池のすぐ所に菅ノ沢遺跡の千何百年の歴史を寸分たりとも休むことなく刻々と息をしていたとはその時は全く知る由もなかったのである。まだ発掘調査はされてない昭和40年頃の事だった。
現在は下記写真(平成26年10月撮影)のように草木生い茂る山の中のごく有り触れた普通な風景でしかなく、須恵器窯址、工房址、製鉄炉、その他のもの、遺跡として成す構造物等何も目に入らず、
静寂の中ジッと立ち尽くす草木は風に揺れ、小鳥と戯れるかのように木々の小枝は、小鳥たちを迎える止まり木にもなりて静寂の中に佇むその木々たちが遺跡の番人をしているかのようである。それらの木々は、草叢(くさむら)混じりに風に揺れ、辺り一面の山林の風景に融合同化して一見なんの変哲もない山の地になってる遺跡の光景への淋しい気分と、活況呈した千数百年前のここでの人間模様に思いを馳せたくなる心情へと?がる二つの気分が派生してくるのである。
この遺跡の地に立って居ると、
心に写す古(いにしえ)の世界は"夏草や兵どもが夢の跡" 的感情が芽生えてくるようでなんか淋しい。血潮みなぎて須恵器生産に四方八方へうごめく千数百年以上前の人々の情熱や活気を見た事も無いくせに、その時代の全ての何も知らないくせに、昔の時空の全てを知らないくせにと思いつつも、ざわめく心は今昔の感を拭(ぬぐ)い切れない気分となるのである。

そんな今昔の感に浸りながらも、一方当時へ推測の思いを馳せれば、この遺跡地で須恵器等の生産に汗水激しく湧き出しながら過酷な労働に勤しむ人たちを想い偲ぶ想いが林立してくるのである。
過酷な労働条件の下(もと)、今この時を生きる術とした心の模様は何を希望として夢を描いていたのだろうか、人それぞれにいっぱいの希望を描いていた事は何だったんだろうか、彼等はどんな話をしていたんだろうか、当時どんな日本語だったんだろうか、どんな声をしていたんだろうか、何を食べて、何を楽しみに生きていたのだろうか、どんな顔をしていたんだろうか、何歳くらいの人が多かったんだろうか、女性も働いていたんだろうか、大ケガや大火傷をしたら回復難しく多くの人は人生終焉方向へ向かってしまったんだろうか、何処からこの地に働きに来ていたんだろうか、ここで働いていた人たちはその後何処へ行ったんだろうか、今の東今泉の地に住み祖先に?がる 人たちになる者もいたんだろうか、この頃の東今泉の地は山深い雑木林と何ら変わらない密林地みたいだったんだろうか………………………………思えば果てしないほどに次から次へと知りたい想像が寄せ来てしようがないのである。
この地で今を生きてた人達の日々は果てしなく遠くにあろうとも、遠くその時代のその時をこの遺跡でうごめく人々の姿に望郷掻き立てるせつなさ描くにも似た心を浮かべながら、菅ノ沢遺跡がいっぱいの尽きない想像を抱(いだ)かさせてくれるのを”有難く、嬉しく、サンキュウ”と感謝するばかりである。大事な「私のスポット」である。

★菅ノ沢遺跡(すげのさわいせき)★

太田市の中央部、東西1キロ、南北5キロにわたる独立丘金山(かなやま)の北東端の南向き斜面にあたる。6世紀末の須恵器窯(すえきがま)七基、7世紀後半の古墳二基、10世紀代と考えられる鉄精錬炉三基が検出されている。金山の北、東、南斜面全域の各沢で6~7世紀の間、須恵器生産が盛んに行われていたと考えてよく、窯址(ようし)群が多く存在する。そのなかで一窯址群が全掘された唯一の例が本遺跡である。太田市内には7世紀代の小円墳群が多く、金山産須恵器のおもな供給先であったと考えられる。精錬炉は、操業方法が想定できるほどに遺存状態が良好で、実大模型が群馬県立歴史博物館に保管、展示してある。1968~77年(昭和43~52)駒沢(こまざわ)大学が調査した。
◆◆上記の文章を参照したコトバンクのサイトはこちら◆◆

ここの枠内の菅ノ沢遺跡の概要は太田市の文化財のサイトにリンクさせていただきました。

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