北関東自動車道のここ太田桐生インターチエンジ が出来た辺りは東田圃の端っこにある田圃なので、子どもの頃を含めある年頃まですごく遠い方といった感覚と、実家の田圃はインターチエンジのある東田圃の方面になっかたのでこの辺りへ行くことは滅多になかった。東今泉内とは考えたり思ったりしたこともなく、矢部あたりかなという感覚でいたような気がしている。それでも小学校と中学校で9年間もあるのだから、何度かは魚捕りや昆虫捕りや、ひばり探しなどできっとこの辺まで遊びに来ているはずである。小学校への学校道の東方面の田園地帯に出来ているので、通学しながらそのインターが出来てる田圃方面は何気なく数え切れないほどは見ていた6年間だったと思うが、このインターが出来てる辺りに近い田圃道は何度しか数える位しか通らなかったような気がしてるけど、子どもの頃に見たここの辺の風景の記憶の鮮明さは濁ってはいるが、あんな感じの風景だったっけなぁと一帯の田圃が広がる光景の中に出現したインターチェンジの辺りを薄っすらとおぼろげだけど記憶の中に存在している。あの辺りにまさか高速道路が、インターチェンジが出現するとは今もって不思議に思えてならないと感じるばかりである。。
俺はその広々とした田園連なる東田圃一帯を成す北東あたりにあるインターチエンジを東今泉の位置地図のように活用することが良くある。
「家は何処なんだい?」とか「東今泉はどの辺なんだい?」とか聞かれた時に「北関東道の太田桐生
インターのすぐ近くなんだよ」と言うと東今泉を分からない奴でも殆どの奴が「ああ、あの辺りかい、何となく分かるよ」と言ってくれたり、東今泉の大体の場所と方向のイメージを浮かべてくれる。
以前はヌード劇場の「〇〇〇〇劇場」からすぐ近くで北の方向でこれくらい行った辺りと言うと栃木県の奴も埼玉県の奴でも、東今泉ってどの辺と言う奴のほとんどが「そ~か、あの辺か」と分かってくれたもんだったが、残念と言うか、淋しいというか、惜しいと言うか、その劇場もなくなり大分久しく時は経ち、その劇場に代わり今はこのインターチエンジを東今泉の場所・方向の目印に大変便利に活用している。
高速道路が東今泉内を通り抜くなんてことは、想像するも想像浮かばず、高速道路は自分達からは遠く離れた所に造られ、ましてやインターチェンジは家からはかなり遠方にあるものという概念を持っていたのにまさかこんな近くに出現しようとは思いもよらなかった。 高速道路が起因要素となってその影響は東今泉の風景はじめ生活環境の様々のものが徐々に年々様変わりを呈し、東今泉の中で長い間培われてきた伝統的世俗的慣習も価値観もどんどん変貌して行き、或いは消滅していつかは語り草のネタにでもなってしまうんだろうか、と。そうなってる頃は俺は生きてもいないだろうからどうでも良いと思えばそれで良いんだけど………。
今は辻口東から更に東へ行った辺りから田園越しにインターチエンジを小さくでも良く見られるが、その内にインターの周辺が除々でも開発が進み、更にその内には加速的にどんどん開発される時が来るんだとするなら、それら開発によっての建造物等に遮られインターチエンジが見えなくなる頃が来るのを想像すると、
自然が今はまだまだ一杯ある東今泉だけど、インターチエンジを起因とする東今泉の風景の変貌を想像する思いの中では、すでに東今泉内のあそこの田園風景もこちらの田園風景も消え失せ、瞼の中に存在するのみと先走った想像をしてしまう。そんな想像心を馳せんとするゆえの郷愁に駆り立てられ、一帯を夏は緑で秋は黄金色で塗りつぶしてくれてた田園は今はなし、と、そんな想像も芽生えていて、季節毎に爽風や寒風が通り流れ、ふるさとの匂いを靡(なび)かせていた東田圃一帯の緑の色や黄金色は何処(いずこ)へと消え失せ、入れ替わるように「開発」の名の下に「ふるさとの情緒」を醸してくれていた田圃の姿は消滅し、新たな建物群が連なるこの辺り一帯の大変貌してしまった想像風景も浮かんで来て、あの頃あったんだよなぁ広々とした田園の大海がなぁと心濡れながらの懐かしさがこみ上げて来る心情が今もう早々と生まれてもいるのである。
本心は田園風景に囲まれる、そんな中にあるインターーチェンジであって欲しいと願い、農家の労力を継続して行く大変さは理解しつつ農家労働もしないでただ書くだけなら誰でも書けるさ、と言われるかも知れない無責任を承知しながらも、今の稲作田園風景とインターチェンジが一体共存しながら今の風景がずっと今後も見られたらいいなと勝手にそう思ったりもするのである。
●前述したように、このインターチエンジは東今泉の場所を話す時、太田桐生インターチェンジのところと言うと相手はあの辺かと大体は了承してくれるので、地図的活用として実に便利である。故に「私の勝手なスポット」としているのである。